映画「FUJITA」を観た後、東京国立近代美術館の「藤田嗣治展」に行ってきました。
映画公開に合わせて、全所蔵作品を展示するという展覧会でした。
私の(画家だった事のある)祖父も、(小磯良平に師事していた)父も、藤田嗣治の事は、日本の画壇とは一線を画した異次元の画家として、特別な敬意を持って話しておりました。小さい頃からその名に馴染み、作品も画集などで、たくさん見せてもらった記憶があります。
でもその後、だんだん実際の社会的評価はそれとは異なる事に気づいてきました。
映画「FUJUTA」のコピーも「あなたはフジタを知っていますか?」ですから驚きです。
けれど、私も藤田がこんなに多くの戦争画を書いている事は知りませんでした。
南昌飛行場の焼打 1938-39
先日ご紹介した藤田の著書「腕一本 巴里の横顔」には、「油絵への注文」という項があり、そこからは、藤田がいかに顔料や油など、物質としての絵具を大切にし、研究していたかが窺えます。
また、絵画は何十年先に見られる事も考慮すべきだと、書かれています。
その言葉通り、戦争画以外の作品は90年以上の時を経ても、ひび割れや変色もなく、藤田の目指した質感と思われるままに残っています。
タピスリーの裸婦 1923
藤田は陸軍軍医総監であった大好きな父親への思いもあり、戦争画に向かったと思います。
初期のものこそ、少年が描く絵のような明るさもあるのですが、だんだんと茶色い世界になってゆきます。
○○部隊の死闘-ニューギニア戦線 1943
たくさんの人物が描かれていますが、私には深い泥の海のように見えました。
この茶色い絵を見ながら、これは、油の褐変によるものか、当初からこの色だったのか考えました。
そして、これは全く私の勝手な見解なのですが、これは、油の褐変によるもので、しかも画かれた時から、予定されたものではないかと思うのです。
そこに藤田がどんな思いを込めたのかは諮り知れません。
ただこの展覧会は、いかに藤田作品が日本で評価されていないか、という事がひしひし伝わってくるものでした。
血戦ガダルカナル 1944
それは、この図録の素っ頓狂なまえがきにも表れています。
「1920年代、パリで成功を収めた理由は何だったのか。なぜ日本に戻り、戦争画を制作したのか。戦後フランスに渡り、何を考えていたのか。藤田をめぐるさまざまな問いは、いまもわたしたちに未解決のまま残されています。
この秋、藤田の魅力/魔力と「MOMATコレクション」の底力をどうぞ感じてください。」
>(小磯良平に師事していた)父...
返信削除おおっ。(愉)
藤田嗣治のことを、まだよく知らなかった頃。
「日本趣味を売り物にして(実力もないのに)有名になった男」「戦時中は戦争画を書いて軍に協力し、戦後は手のひらを返したようにフランスへ逃げた男」というような、芳しくないうわさ話を聞いておりました。(汗)
「真実」がどうであったか、突き止めるのは、なかなか難しいことです。
ただ、戦前・戦後の彼の絵を見るだけで十分なのではないでしょうか。
みっち的には、例えば、戦前の「座る女」(上野西洋美術館で常設)、戦後の「カフェにて」(これはまだ現物を見たことがないが)を見れば、それで満足いたします。
はい、おっしゃるとおりです。
返信削除作品は、本当の事しか語りませんから。
ただ、日本人は何かを評価する時、たくさんの情報を必要としますからね。