展覧会のお知らせ

<展覧会のお知らせ>

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2019年1月15日-28日

2015年12月7日月曜日

腕一本_巴里の横顔_藤田嗣治

先日ご紹介した映画「FUJITA」のモデルとなった藤田嗣治のエッセイ集です。
主に、「巴里の横顔」と「腕一本」が出典となっています。
明治の文豪のようなずっしりとした文体で、驚くような内容が次々と書かれていますが、人や物に対する愛に溢れており、藤田嗣治という人が立体的に浮かび上がってきます。
興味深い逸話がたくさんあり、何をご紹介しようか迷ってしまいますが・・。

後半に「現代大家」と題され、交流のあった画家についての文章があります。
藤田自身も自分をプロデュースし、著名な画家となるための努力を怠らなかった人ですが、無名時代の「ピカソ」が自分を売り込むために仕組んだ、ちょっと姑息で、かわいいエピソードがあります。
友人に画廊に行ってもらい「貴方の所にピカソの絵はないのか、是非みたい」と言わせます。
そうして画商を「ピカソの絵というのは一体どんなのか」と、ピカソを知らなければいけない破目に陥らせ、自分の絵に注目を集めさせたそうです。

一方、こういう事のできなかった「パスキン」や、「モデリアーニ」は、若くして自らの命を絶つ事となります。
「パスキン」と「モデリアーニ」の項は、多くは語らず、半ページにも満たない短い文章なのですが、心に響くものがあります。
そこのある「モデリアーニ」の姿は、「モデリアーニ」を主人公とした美しい映画「モンパルナスの灯」そのままです。


とても、すばらしい本なのですが、個人的には、未発表ノート、特に「夢の中に生きる」は掲載しない方が良いのではないかと思いました。


藤田嗣治が、日本に帰り、おかっぱ頭を切った時の一節です。

今日からオカッパ頭と呼ばれることはなくなったと同時に、新称イガ栗という名称が待ちかまえていることには気づかなかった。
怪獣から果物に変わった。動物園から抜けて植物園に移った。
私は、鏡の前におのれの顔を映して見入るとき、過去二十七年間の風貌は今日消滅して、私の顔が、今日もなお健在である八十七歳の老父に彷彿たるもを見出したとき、はじめて、自己自然の姿に立ち帰り、日本の国土に根を持つ民草の一本といて、生をこの安泰の恵みに浴し得ている有難さに感涙したのであった。
「河童頭新体制」藤田嗣治

2 件のコメント:

  1. 藤田の文章は、偽悪家ぶったところがありますね。
    これも、自らのナイーブさを隠すための、ものなのでしょうか。
    ランスの礼拝堂は、テレビで観ましたが、美しかったですね。
    まあ、ちょっとあの壁画は、う~んというところもありましたが。(汗)

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  2. そうですね。本当に純粋な人だと思います。
    セルフプロデュースの行いかたもわかりやすいです。
    壁画の「う~ん」の後の感想もお聞きしたいですね(笑)

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